梅雨の前の話から

 梅雨前に茂りに茂った薔薇とツツジの剪定を終えた。柿の消毒もできた。台風に刺激された停滞前線の降雨が来る前に作業できたが、片付けは進まなかった。それも雨の前日にぎりぎり片付けたという体裁を整えた。
 写真はないが、5月の後半はドクダミ、朝鮮木萩、そしてカボチャの花が続いた。カボチャは雌花ばかりで雄花がない。だから受粉ができなかったけど、初めて育てる植物というのはそんなものだろう。

 収穫としては蕗を収穫した。春は蕗の薹(花芽・蕾)を、初夏は蕗の茎・葉を収穫する。いつもは老母がこそこそと収穫していたが、これも自分がやるようになったな。そして言うところの 伽羅蕗(きゃらぶき) を食べた。
 子供の頃は蕗の臭いが嫌いで全く食用不可と遠ざけていたが、既製品(弁当の惣菜とか)で出会った伽羅蕗は、灰汁を何回抜いたのか香りもなく食べやすかったのを覚えている。
 それはもう昔。今は嗅覚も老いて蕗の臭いに鈍感になり、苦味さえも美味さとして感じるようになった。薄らいでも蕗の臭いが好きではない理由というのもわかるようになった。湿気た裏庭の鬱蒼とした臭い、ドクダミや蕗が跋扈するあのくらっとする程の青臭さが、蕗の臭いそのものだからだ。蕗を食べると咽返るような夏の鬱蒼、あの青臭さに襲われる。
 黴臭さの隣にあるようなあの青臭さは、子供の頃の自分には不快なものだった。老いて今でこそ、その向こうにある旨味にたどり着けるが、子供の自分には無理だったんだと妙に納得がいく。それを美味い美味いと食べる大人が異常に見えるのも仕方がない。共感は強要しても無理だということだ。

 無理だからとやめれば、それ以上はない。結局は続けられたら勝ちになる。私は蕗に負けたのだ。子供の頃は抵抗していたのに、今や自分で収穫するようになった。
 続けていれば、時間に伴う変化が状況をも変えることはある。日本語では「馴染む」とか「こなれる」とか幾つか表現がある。それは若さとは反比例するもので、個人の変化としては趣味や嗜好が変わるという場合もあるだろう。それは人に限らず、草も虫も動物生物全般にいえるのかもしれない。

 粗野で野蛮であること、人からものを奪うことになれた人々が北方に広くいて、侵略を是とする異常者が一億人からいるという。
 殺人にこなれた国家、搾取に馴染んだ社会と長くいると、人から奪うことを当たり前だと考えるようになるらしい。人から奪う自分を正しいと信じるようになる。それを今、ロシアと呼んでいる。
 ウクライナがどうかではない。ロシアは許してはならない人類の敵そのもの。ロシア人に善人がいても、ロシア社会・ロシア国家を許していい理由にはならない。
 どんなに老いて鈍感になっても、奪う者らを許容する人間にはなりたくない。
 しかし、奪う者を否定すると、今の日本の野党を広く否定しないとならなくなる。どうも、今の政治家は国内の政争のために親ロシア的な発言が目立つようになっている。国内の軍事力強化に反対する意図で反ウクライナ的な発言が目立つようになっている。
 結果的に味噌と糞を混ぜるような政治屋が目立つようになった。

 とても残念なことだ。殺人事件を無くすことは難しいかもしれないが、殺人に反対することはできる。侵略糞と防衛味噌を混ぜて語る政治家が減ることを祈るばかりだ。

 さても雨が増えて、味噌や糞より土砂が気になる季節になり候。

 台風は老いているわけではないだろうが鈍足で、海の上で勢力を保っている。偏西風に乗れば動き出すのかもしれないが、30日時点で最大瞬間風速60m、気圧950hPaでなかなか侮れない。土砂崩れだけで済めば不幸中の幸いだろう。洪水氾濫濁流となれば、被害は広域に及ぶだろう。

 そんな台風接近、対外的には北方の不穏、といった中での岸田の馬鹿息子で茶番劇。長野県の地方政治家の銃息子の話題も重なり、その上長野県警の反省に乏しい姿勢にももやもやとする。凶器を持っている犯人に銃も防弾ベストもなく、手ぶらでやって来た地方警官を弁護する気にはなれないけどな・・・
 犯罪を肯定する理屈は一切ないが、犯罪に対する最有力の組織である警察・県警の様は、無様・体たらくとしか言えない。
 状況の変化に対応できない警官は一般人以下だ。せめて、防刃・防弾チョッキは着用すべきだったし、何らかの凶器を持っている相手に拳銃を持っていないのも疑問しかない。
 長野県警は真摯に反省し、当時の対処に問題があったことを認めることが重要。そうでなければ、長野県警は手ぶらで死ににくる馬鹿の集団ということになる。もし、警官が一人でも生きていれば、被害者の一人でもを救いえたかもしれない。市民を保護すべき警官が現場到着早々に死亡するというのは失態としかいいようがない。
 銃社会ではないとはいえ銃撃事件は度々起きている。銃犯罪の少ない地方県警であっても、初動対応ぐらいは全国で統一してもらわないと暴力が一定の効果を上げる歪な社会が続くことになる。
 第一被害者は守れないのは仕方がない。しかし、第二第三の被害者は止めなければならない。そこに警官がいたことは失態であり、長野県警のその後の発表は真摯さに欠けている。この期に及んでの身内擁護とは、長野県・県警の改善意識は相当な低水準だといわざるえない。

 で、一周回って低水準なものを見るとロシアを想起せざる得ない。

 梅の実が大きくなってきた。巷では青梅が売られるようになり、あの日の丸弁当好きで知られるジョージア大使も早速青梅を購入したという。
 ジョージアには梅の料理があるという。ックェマリ、ツケマリ(ტყემალი)と呼ばれる梅とハーブのソース。そしてそのソースを利用したハルチョー(ხარჩო)という牛肉と米のスープというのがある。
 ジョージア大使が有名になるごとにこれらのレシピの日本語での紹介も増えているので、ツケマリは作ってみたいなぁと思うのだけど、何といっても香辛料やハーブ類が地味に値上がりしていて、二の足を踏んでしまう。
 6/30の夏越の祓に特別料理を作るというのが自分の中で定番化しているけど、何度か計画してはいるけど、いざスーパーに買い物に行くとついつい加賀太きゅうりを買ってしまい、海老と加賀太きゅうりのあんかけに落ち着いてしまう。
 今年こそはせめてツケマリを作ってみたい。もちろん自家製の梅で。
 パクチー(生コリアンダー)・ディル・コリアンダー(粉コリアンダー)・カイエンペッパー(赤唐辛子)・砂糖などが最低限の基本ハーブ類らしい。
 生はコリアンダー(パクチー)とディルだけだから、比較的手に入れやすいが、ネギのようには日本で使わない。かといって、アレンジしてしまうと異なる料理になってしまう。
 ソース自体は冷凍したりすれば長持ちさせられるだろう。レシピサイトではレモン汁をかけるように使えば、和洋食にも馴染むらしい。
 野菜や肉のスープの味付けに使われるツケマリ。今年こそは・・・
 でも、ディルがわりとないんだよね。季節の問題なのかな・・・・・

とらぬ梅算用して異国の夢
熱いカフェは私雨は青梅へ

収穫 3

 今年は山茶花を剪定した冬~春のうちにスミチオンを撒いた。お陰で山茶花も椿もモッコクも害虫がほとんどつかなかった。そのついでに梅や蜜柑、柿にも軽くスプレーしたので収穫を期待したが、今となっては反省しかない。
 柿は背が高いので軽くスプレーしたぐらいでは大した効果ないだろうが、蜜柑と梅には効果があった。受粉する虫も減ったのだ。実が全くつかなかった。
 蜜柑は花も少なかったが、梅は花だけなら多かったのに・・・

 今年の梅の収穫。豊後梅は1つ見えたが傷んでいたので今回は放置。この写真は八重寒紅梅の実です。傷もなく綺麗なのが3つも採れました。八重寒紅梅は鉢植えなので、本当は花が終わったら落としておくべきなのでしょうが、常に実を期待してます。昨年は途中で早々と落ちてしまったけど、スミチオン効果なのか実った3つは最後まで落ちませんでした。
 豊後梅の実と比べると一回り小さい実。なんかかわいい!
 追熟する必要もなさそうなので、洗ってまもなく砂糖とブラックニッカで約350mlぐらいかな、本当に少量の梅酒を作りました。昨年のものはまだ残ってるし、好きな人は実ひとつでも小ボトルで作ってみるといい。さすがに実1つなら200ml前後だろうな。口が広く蓋のある小さなボトルを準備しないといけないね。
 色んな酒で少量作ってみるのもいい。基本は熱処理されている蒸留酒。日本酒の梅酒もあるけど、ボトルの殺菌や保存場所は注意が必要。保存場所という意味でもボトルが小さいと深く考えなくていい。うちでは床の間が暗くて何となく涼しいので隠し置いている。
 面白いものでこういうことをすると、これができるまで生きてようかなと思う。できたらできたで次の年も作りたいと思うだろう。自然と生きる意味は添うところにあるんだろうな。仮に国が滅びても、きっと梅は咲くだろうと思える。核戦争でもなければ・・・
 収穫がゼロだから死ぬということもないんだろうけど、ゼロだと思っていたら思わずたった3つ、されど3つを拾う喜び。

庭の実三つみつけて梅酒瓶