冬至~年の瀬作戦

 去年より今冬は寒いと感じているけど、今年もスミレが咲いてしまった。ツバキは咲くことがあるとしても、スミレが二年連続で咲いたのは恐ろしさが勝る。
 南関東にも雪が舞った所もあるらしいが、冬至前後の寒さこそ納得の行く寒さだが、12月としてはだらけた寒さではないかね、冬将軍よ。

 冬至にも夏越の祓みたいなことをしたくなったけど、ざっと調べても、粥・南瓜・柚子といったぐらいで、うちでも柚子湯と南瓜の煮物はしてきたけど目新しさがなくて、不満足!
 せめて今年は粥ぐらいは追加したい気分だ。理由なくそういう気分だからしょうがない。

 幸い小豆はあるし、小豆粥ならぱっとできそうだが、つまらない。大根ぐらいは入れるとしてもつまらない。餅もあるけど、そういうのではない斬新な粥を食べたい。
 海外の、西洋の冬至は大概クリスマスに吸収されたらしく、北欧に豚を食べるというゲルマン文化の名残が残っているとか。
 冬至・夏至は太陽信仰と縁深い習慣でもあるので、一神教に支配された地域では大々的な行事は消えてしまったらしい。一方で習慣として冬に栄養のあるものを食べようとする文化自体は宗教とは別に世界各地に残っているらしい。特に四季のある地域では冬をどう越えるかが重要なテーマになるからだ。
 現代都市民である自分は電気が生み出す熱に依存している。若い頃は冬のアイスが美味しいなどと伝統を顧みなかったなぁと、反省というほどではないがなんとなく切なくなってしまう。

 もう人が死んだとかで切なくなるのは止めようとは思うのだけど、さすがに人生50年に満たない人が亡くなると切なさを感じてしまう。せめて病気とか事故ならさもあろうとかで切り換えやすいけど、それ以外だと気分転換する気分にもなれなくなってしまう。
 NHK紅白にはそういう穴が空いてもいいと思うのだけど、埋められたら埋められたで、埋めてしまえるものなんだなぁと切なさにテレビ離れが加速してしまう予感。
 冬至を待たずに、日照時間の下降線で消える人に何ともいえない切なさを感じてしまう。あまりに寒い国の物語だね・・・

 冬至に何かをしたいと思うのが遅すぎて、準備とリサーチ不足。半年前は6/30にあわせて加賀太きゅうりで夏越料理ってことにしたけど、冬至は何も考えてなかった。寒いと機能が停止していくからなぁ。冬至にこだわらず、クリスマスや大晦日までに正月「前」料理を考えようかな。
 年越し蕎麦から転じて蕎麦粥アレンジを考えようかな。蕎麦の実がスーパーで売ってたら蕎麦の実で炊いた粥かな。蕎麦の実なんか買おうと思ったことがないから売ってるかわからない。なければ、蕎麦麺を刻んで粥にトッピングするか?
 もしかしたら、年末らしい何かをスーパーで思いつくかもしれないな。神の差配に任せて、切なさを癒すか・・・

南瓜色とこじつけカレーの冬至

老人の買い物3

 またしても新しく花を買ってきた。自分流にいえば木ではなく草を買ってきた。

 ミニ胡蝶蘭の手頃な感じが好きだったけど、以前に夏の管理を失敗して茹で蛸にしてしまったことがある。夏の日差しは恐ろしい。炒め物していてちょっと離れた隙に焦がしてしまうような、そういう失態だ。熱は恐ろしい。
 アレから何年経っただろうか?

 花屋に行ったのは老母のご機嫌取りにビオラを買い足すのが主目的だったが、調布市のプレミアム商品券の影響でもある。使える店を確認したら、以前はバス通りにあった花屋の名前があった。移転先だってうちからの距離は変わらないのに久しく行っていなかった。懐かしくてGoogleってみたら、知らないうちにTwitterやHPが充実していて行ってみたくなったのだ。
 ビオラとは別にプレミアム値引きのお値打ち品があり、思わず手に取ったのがミニ蘭だ。それが胡蝶蘭でないことはわかるが、胡蝶蘭以外には興味がなかったので、なんだかもわからないまま、衝動的に手に取ってしまった。

 ビオラ以上に老母を喜ばせたお値打ち品はシンビジウムだった。ミニサイズのシンビジウム、ネットでは「テーブルシンビ」という単語が踊っていたよ。シンビジウムなんて全く興味のない花だったのに、これも老化のなせる業なのか・・・
 新しい花を買って浮かれつつも、なんでこんな花を買ったのかと少し後悔したりもしている。コロナ禍に鬱積した何かが弾けているのだろうか?
 胡蝶蘭用にミズゴケの準備はあるが、シンビジウムはバークチップを使うらしい。バークチップってわりと高いよね。
 で、芽掻きだとかなんだとか、面倒なものを買ってしまったなぁ。胡蝶蘭だって放置してるのに・・・

 急に寒くなってきたな。あちこちで氷点下とか言ってる。もう寒くて、油断すると鬱に堕ちるんじゃないかと不安になる。ま、花を買いに行く元気があるなら大丈夫か。
 でも、柿を切る勢いはない。体が鈍っていて、ここまでの剪定作業で肩が亜脱臼してるかもしれない。多分、剪定鋏の反作用力が肩の関節に直撃したんだろう。鋸作業の反動かと思ったけど、どうやら鋏を閉じる(切る)動作の反作用力が肩を外に引っ張るベクトルとなり、それを繰り返しているうちに古傷でもある亜脱臼を誘発したのかも。鈍っているのに力任せなことをしたからだな。軽い腱鞘炎にもなっているし・・・
 何もかも老化と怠惰がなした業だな。厭世が加速しても草への執着が残っている。沙羅双樹の花の色、必衰の理をあらわす。驕れる者も久しからず、溺れている人は間もなく溺死、躍れている人もいずれ老いて動けず、おもねる人も連座して失脚する。
 厭世が祟り、老化と怠惰が執着する草木からも遠ざけている。
 執着すればするほどに厭世は深まり、深まるほどに厭世の底から執着の念を発する。
 何にも噛み合わず無力に回る歯車のよう。機構からはみ出て、何かに作用することなく、何の仕掛けもなく、からからと空回りし、歯車と呼ぶべきかもあやしい。そんな回っているだけの車の類を何と呼べばいいのだろう。それを命と呼べばいいだろうか?

寒さか悲しみか 冬の朝に泣く