325 春雨

 「春雨だ、濡れていこう」とうろ覚えというか聞きかじっていたが、出典を検索すると「春雨じゃ、濡れて行こう」で、中国地方の独特の語尾変化「じゃ」が正しいらしい。
 戯曲上の架空の長州藩士「月形半平太」の物語なので、「春雨じゃ」なんだってさ。
 これが大阪の話なら「春雨や、濡れて行こ」、沖縄人の話だったら「春雨やん、んでぃてぃ行か」になるんだろうね、しらんけど。(方言変換)
 自分だったら「春雨だね、濡れたくないが、傘も邪魔さ」かな・・・

 とにかく濡れて行くには寒すぎる。森保ジャパンはミラクル采配健在で雨の中ウルグアイにドロー。うるさい人がもうミラクルではないとか言いそうだけどね。表現は自由でいいんです。

 雨が降るたび季節が進むのが春というもので、庭ではシャガが咲き始めた。温暖化だね。例年ならやっと桜の季節なのに、もう散ってるところもある。
 春が圧縮されて、花だけならもう晩春から初夏さえ感じる勢いだ。あ、さすがに薔薇は咲いてから初夏は言いすぎか・・・

 庭の鉢植えでは、「最後の椿」が咲き始めた。芯が見えない千重咲き、赤というか紅色かな。
 これも隣家からいただいた挿木苗だけど、状態がいまいちで置き場所を転々と変えて、昨年ぐらいから北面が適地だと分かった。花期だけ南に置いて、夏は北面がいいらしい。
 今年は花が多いから、肥料をやらないといけないね。

 そういえばカボチャの苗も双子葉が大きく伸びて、勢いを増している。
 で、雨天だからこそ撮りなおしたユキノシタとカンアオイも加工して一枚の画像にしてみました。雨だから元気になる下草たち。シャガもそうだけど、雨が降るごとに春は進んでいきますね。止められないんです。

 うちでは既に下草の扱いを受けているチューリップ。
 思い起こせば私のノスタルジー、幼稚園でもらった赤いチューリップ。
 何年前だったか、ノスタルジーに駆られて季節はずれの安いばら売り球根を買ったけど、植え替えとかが面倒になって、捨てることもできずに庭に球根を撒き捨てたんだよね。
 で、半野生化して勝手に出てくるようになったチューリップたち。地植えで植え替えもしないから消えるかと思ったけど、中央アジアの原種のように強く環境に適応している。

 Twitterでひょんなことからパレスチナの葡萄葉包み料理を見た。
(ペルシャ語/ドルメ/包む・トルコ語/サルマ/詰める、ヤブラク/葉・アラビア語/マーシ/詰める・・・などというらしい)
 ちょうどイスラム圏ではラマダンの季節に入り、イランでは春分が正月で、ノウルーズと呼ばれる祝祭だという。

 イスラム暦は西暦に対して毎年約10日づつ早くなるらしく、今年は西暦3/23(〜4/21)からのラマダン(イスラム暦9/1~)とイラン暦の正月(イラン暦1/1~・西暦3/21〜4/20)が重なるらしい。
 イラン暦の正月は太陽の春分日に由来するので、西暦の春分と同じ。日付が必ず1/1でノウルーズになるだけだという。

 政治情勢は暗澹でも、時は止まらず、祝祭では専用の料理も出るのでしょう。

 私が見た某tweetには特に説明はなかったけど、葡萄葉包み料理の起源は古代ペルシャ帝国に遡るらしい。おそらくメソポタミア文明から古代ペルシャ帝国までに発生した料理なんだと思う。
 その流れを汲んでいる有名な料理はヨーロッパの広域料理ロールキャベツ。
 アジアにも葡萄ではない葉に野菜、肉、米や餅などを包んだ料理がある。東アジアの「ちまき」もルーツは葡萄葉包み料理かもしれないといわれている。
 葡萄葉包みは葉ごと食べるものらしいが、東アジアは葉を食器として用いる文化圏だったこともあり、ちまきのような成形のための調理器具のような葉の使い方をするという。
 東南アジアでもバナナの葉や椰子の葉を使った包み焼き料理があるけども、ルーツは諸説ある。
 日本もちまきだけでなく、朴葉焼きや柏餅、柿の葉寿司など葉を食器としていた文化の名残がある。
 食べる葉としては桜餅、焼きおにぎりの紫蘇巻きなどが思いつくけど、歴史的にはずっと後発の文化ではある。

 うちの庭で食べる葉といえば三葉、柿の葉、桑の葉がある。あ、あとドクダミもかな。桑の葉はかじってみただけでその後は手を付けていない。柿の葉は「新芽の天ぷら」が近年の定番。乾燥させた柿の葉茶も殺菌効果があり、風邪対策とかにはかなりいいと実感している。
 というわけで柿の葉を塩漬けにしたら、長持ちして包み料理に使えるかもしれないと妄想中。桑の葉の塩漬けもやっていいきがするね。
 柿の葉寿司は包むだけで食べる時は葉を外す。でも柿の若葉は仄かに甘いんだよね。うちのは甘柿なので、渋みが少ない可能性はあるかも。

 さて、ウクライナに武器も義勇兵も集まっている。ロシアのまとまった反撃もピークを過ぎたという情報もある。
 時間は止まらない。季節は進み変わって行く。
 習近平の和平には現実味はないが、中国はロシアを市場とする外交関係は維持するらしい。
 習の訪ロは、中国の外交関係はプーチンではなくロシア市場と結ばれているという確認だったのかもしれない。

 プーチンが逮捕されない国は極少数だ。もちろんロシア本国でも、逮捕されないという保障はない。
 権力が崩壊する時は、例えばイラクのサダム・フセインのように、沈黙していた敵対者が一斉に立ち上がる。フセインはイラク人によって殺害された。アメリカ人に殺されたのではない。
 アメリカの戦争の口実は不当でデタラメだったが、フセインがイラク人によって殺害されたことは事実だ。

 イランでは、テヘランでの今年の正月の祈りが「独裁者に死を、ハメネイに死を」だった。
 不当な独裁者が逮捕されないのは、反対者を押さえつけているからだ。
 ロシアにさえ反プーチンを掲げる人はいて、今沈黙している者もどこかのタイミングで暴発するだろう。
 ウクライナ軍の反攻が始まるのはまだ先だが、時間は止まらないし、季節は確実に進んでいく。

 プーチンの逮捕は、おそらくロシア人によって行われるだろう。

女こそ兵の脅しに心まで縛られぬ志士「死を」誓う志士
「必勝」とウの三叉槍はためけば 「反戦」ごとき一蹴の守備
葡萄葉に包む太古の味は今 自由の血肉 反骨の筋

賭け FullVersion

 二人は名うての勝負師でこの宿場で相手になる者はもういない。遠くの街から噂を聞きつけてやって来る金に糸目をつけない物好きぐらいだ。
 二人ともいざこざの多い厄介者でもあったが、互いに一目を置いていて二者間の争いは避けていた。それに月一と暗黙の了解があった「二人の勝負」はそれだけで見物客を集めたから、店の方でも重宝していた。
 しかし、その時の勝負は少し違った。酒に飲まれる二人ではなかったが、妙な言い争いから勝負することになった。しかも、二人ともポーカーを避けて、ババ抜きをするという。ババ抜きなんていうのはカードが全部あるかを確認するための子供の遊びだ。
 それでも、「二人の勝負」というので見物客が集まった。
 二人だけだからあっという間にカードは減って、残すカードは三枚。ここからが本当の勝負だった。
 お互いの手札にAがあった。短髪の方はハートのA、長髪の方はスペードのAだ。さらに短髪の手札にババ。
 そして長髪がババを引いた。
 見物客から息が漏れる。短髪が勝ったという空気感。
 しかし、次の手番、短髪もババを引いた。
 見物のざわめきも自然と大きくなる。それから40回もJOKERばかりが行き交った。
 ヤラセではないかと思った者もいる。ポーカーフェイスもババ抜きではあまり意味がないなどと間の抜けた解説もあった。見物客の目にカードが映っているという者もいた。
 ポーカー勝負ではないと聞いて見物に来なかった者さえ40回の頃には覗きに来ていた。
 お互いにイカサマをしているという見方もあったが、JOKER一枚にどれほどの仕掛けができるだろうか。カードに下手な細工をすれば、それがJOKERとわかってしまう。ババ抜きを選んだのはむしろイカサマをさせないためではないのか?
 それにしても40回は度が過ぎている。見物客は勝手な疑心暗鬼に陥っていた。

「でも、俺はそれを見てたんだ。最初からな。
最初は見間違いだと思った。立ち位置を変えて両方の手札を見たが間違いない。ババが引かれる度にそれは起きてたんだ――JOKERの顔が、表情が毎回違うんだ。二人が変えているのか。そんなのはもう人間業ではない。JOKER自身が変えている、生きているのでなければありえない」

 見物客の一人が耐え切れずに、「違う」と声を出し、店を追い出された。
 さっきから店を出たり入ったりしている奴は、飽きてきたが店を出ると結果が気になって戻ってくるのだ。
 JOKERは50回目の移動を終えた。見物客の半分は目を逸らし、半分はそれを見張っていた。
 決着が二人の集中力が切れるまでつかないと踏んで、体を洗ってから出直してきた者もいた。

「JOKERはまだまだやる気って顔だった。でも二人は少し疲れていた。そもそも何のための勝負だったんだろうな。二人が言い争う理由なんてなかったと思うけど」

 短髪は舌を出したり、ウインクしたり、靴を鳴らしたり、色々と仕掛けていた。長髪は冷静を装って、ほとんど表情を変えなかった。JOKERはいつも楽しそうに引かれる度に顔を変える。
 とても奇妙で異常な勝負だった。

「決着? 結局そんなのはなかった。そろそろ閉店したいからと店主が止めたんだ」

 二人は憔悴しきっていた。見物客も寝ている方が多かった。後日、報告だけ聞けばいいと帰った者もいた。

「きっと店主が止めなければ永遠にJOKERに弄ばれ続けたんだ。店主だけがゲームの外にいたのさ」

 二人が妙な老人にけしかけられて言い争いを始めたという目撃談も後に出てきたが、それが事実かはわからない。二人が何を賭けて勝負していたのかもわからないまま。
 プライド? ただの意地? 世間体もあったのだろうか?
 どちらにしろ、勝負師というのは碌な生き方ではないし、死に方も碌なものではない。

「短髪は情婦に刺されておっ死んだし、長髪も他人の決闘に巻き込まれて逝っちまった。だから誰も真相は知らないんだ」