砂と雨の間に

 寒の戻りで本来の四月らしさも戻っただろうか?
 庭の木蓮は、例年より花が多く感じる。中国南部原産の木蓮は気温次第で断続的に花をつけ続ける。例年ならば、寒の戻りの後に咲き始めて、梅雨寒の時期に花が止まる、晩春と盛夏の二期咲きなのだが、今年は三月から花が止まらない。一番花群が散り始めて、すでに二番花群が膨らんでいる。
 花が例年より多いので、散る量も相応で、掃き集めるとなかなかのボリュームになる。散った花は花肥になるという自論で花実をつける植物の元へ掃き捨てる。
 木蓮が落ちた所には芹葉飛燕草が復活している。飛んでいるツバメのようなシルエット。一見は芹や菊を思わせる裂葉だが、葉先の尖り具合などに見分けるポイントはある。
 中国原産の植物で中国語では翠雀属 還亮草。還亮草の由来はギリシャ神話アイアースの悲劇に由来するらしい。気になる人は中国語とギリシャ神話を往復して調べてください。本当かどうか教えてください。

 黄砂のピークは過ぎたようだが、少し肌寒い、「寒の戻り」を実感した。
 黄砂を避けていたら、雨の予報もあり剪定のタイミングを掴めなかった。そして寒の戻りで雨天へ。椿はもう花が落ちているので切りたいし、モッコクも切りたい。でも、黄砂、風の強い日、雨の日と不安定。
 花粉症を病院で検査したことはないが、ヒノキの季節の方が重いので、すぐに眠くなる。体が常に疲れている感じだ。

 某日、庭に出てみるが風が強すぎる上に雨雲も居座っているので、庭木の剪定はやめて、鉢植えの作業だけにした。鉢植えの剪定ならすぐに終わる。
 庭のモグラが盛んに掘り返すので、穴を埋めて踏み固める。モグラを駆除する予定はないが、ちょっと暴れすぎ。

 飛燕草周りの雑草を抜いて鉢に囲うかとも思ったけど、一旦保留して、出すぎたドクダミを抜いたり、思いついたようにユウガオの種をポット植えにした。
 昨年に老母が買った種も残っているが、育ったユウガオの実をグリーンカーテンネットにつけっぱなしていたので、種の回収ついでネット掃除。蒔かない種は煎って発芽力を失くしてから肥料にするつもり。
 ゴーヤーの種は水につけて準備中。寒が抜けたら埋めよう。あと、何の実かよくわからない実もある。庭の植物だけど、何だったか覚えてない。とりあえず、水につけておこう。とりあえず、何となく湿らせておけばいいや。

 

 シャガってのも中国原産で、日本に入ってきたものは不稔性の三倍体。中国には種子ができる原種があり、日本でも買うことはできる。
 ちなみに姫シャガは日本原産でサイズも小さく、冬には葉が枯れて地下茎だけで過ごすので鉢に囲ってないと雑草として埋もれてしまいそう。
 シャガは冬も葉が残るので、常にわさわさと庭を覆ってしまう。増えすぎたら抜いていかないと無限増殖する。ひとつを引っ張ると地を這うランナーに他の草が巻き込まれることもあるので、そういうのは面倒かも。
 ただ、花は胡蝶にも例えられる美しさがある。アヤメ科らしい真横からのシルエットが一番らしさが出るかなと思う。

 シャクナゲは日本を含む広域に分布している。Wikipedia情報だとヒマラヤを中心に、南はオーストラリア、北はシベリアと実に広域に適応した植物だ。
 雨が降る前に撮影しておいたけど、寒くなったら一気に満開になっちゃった。
 ツツジは好きだけど、いまいち石楠花は好きではない。わりと手間がかかるからだ。
 庭では柿と蜜柑の木陰に隠れているが、俗に言う西洋シャクナゲは全般的に耐暑性の低い品種らしく、近年の炎天との相性が悪い。挿木もできるというけど、ツツジの根付きやすさに比べたら、全然根付かないといってもいいぐらい。
 例に漏れずうちのシャクナゲも「西洋シャクナゲ」と一括りに売られていたものなので、細かいことはわからない。
 ただ、ストロベリーシロップをかけたかき氷みたいな色合いが好きなので、嫌いになれず、甲斐甲斐しく芽々しく手入れをしている。
 それにカルミアの鉢が以前に枯れちゃったしね。
 ツツジ科って人気があるから、買おうと思うと高いんだよね。
 というわけで、寒が戻る前に慌てて撮った写真を吐き出しました。で、大雨が降って寒くなったら、肝煎りのウンナンオガタマが開花してました。
 寒くなっても、例年の気温に戻っただけなので、寒暖差に負けている鬱人と植物の逞しさではやっぱり違うんですね。

 わたしが政治家の発言で座右の銘にもしている言葉がひとつあります。
「あなたとは違うんですよ、あなたとは。」
 当時首相だった福田康夫氏の発言です。しかし、この頃は特に記者の質が悪かった。耐えかねたクールな政治家が発した珍しく感情的な発言。人権が無視されがちな社会で、一概論を吹き飛ばす、気持ちのいい啖呵だった。特に支持する政治家ということもないけど、福田さんのこの言葉は今も忘れない。地味だけど大事な言葉。
 人を批判することが多いこのブログの管理者としても、この言葉が常に返ってきているのだと自戒するのに必要な言葉。
 当たり前のことを感情を持って言うと、届くところには届くんだなぁとしみじみと思う。少なくともこの言葉は自分には響いたな。
「あなたとは違うんですよ、あなたとは。」
 差別的にも聞けるし、排他的にも取れる言い方だけど、「あなたとわたしは別の人格です」という人権を考える中で見失いがちな当たり前の事。
 例えば、ジェンダー平等とはいうが、求める平等の内容が個々に違うことを無視しがちだ。
 一方で違うことを理由に、中国共産党や朝鮮労働党は人権を恣意に解釈し、全く異なる用語にしてしまう。
 あなたとわたしは違うけど、変えてはならないものはあるでしょ。例えば命の意味があなたとわたしで違うなんてあってはならない。命の価値が違ったとしてもだ。
 中国共産党は人権の意味を変え、命に価値までつけて、全てを共産党書記長に都合よく序列づけてしまう。それはもう人権ではないし、命でもない。

 シャクナゲの花は球のように咲くが、同時に全てが咲くわけではない。
 それぞれがそれぞれのタイミングで咲く。
 ひとつのシャクナゲだけど、あなたとわたしは違う花。
 それぞれに咲ける無理のないタイミングで咲きましょう。
 でも、太陽や大地に支配されていることは内緒です。
 人がそれを変えてしまっていることも・・・

石楠花の球 悩める世の雨の滴に

もう夏の前らしい

 庭のシャクナゲが咲き始めた。柿や蜜柑に日照を遮られて成長の悪かった庭の石楠花。このブログのmemoを見ても四月の花ということになっている。四月も半ば過ぎてツツジに近い時期に先行して咲く印象だが、三月に咲き出した。さすがにツツジはまだ咲きそうにない。
 チューリップ、ラナンキュラス、サキシフラガ・シンバラリアが咲き出したが、四月上旬の花が少しずれたという程度で、日陰がちな庭でシャクナゲというのはさすがに早すぎる気がする。

 特に管理していないというか、雑草でもあるヒメオドリコソウ、シソ科ホトケノザ、ツルニチニチソウ、ハコベ、オランダミミナグサ、北の日陰ではオニタビラコが群生して咲いている。
 混栽鉢では終わりかけのムスカリとスミレしか咲いていない。
 管理している地植えだと日本桜草が咲き始めた。毎年「無くなった」と老母に文句を言われるあれ。菊や他の雑草が伸びてくれば、桜草の周りだけは抜き取って、桜草優先にしてやっている。そういう手間がかかる花を女々しいと嫌ってきたのに、女々しく大事にしてやってる。

庭のスミレは三種ある
夏は紫蘭に埋もれる桜草

 女々しいという形容詞も差別的といわれる時代だけど、女々しいの言い換えはないし、女々しいという言葉が表現する状態はあるし、難しいね。似て非なる表現では「あざとい」というのもあって、最近はメディアがやたらとポジティブに取り上げる。「あざとい」には強さがあるが、「女々しい」は弱さを強調しているので、似て非なるものだ。
 やはり、言い換える言葉がないので、女々しいは女々しいだね。当てる漢字が「女」だから悪いのかなもな。逆に「男々しい」はないな・・・と思ったら、一応「おおしい(雄々しい)」と読むらしい。「男らしく勇ましい」という意味らしいけど、だったら「勇ましい」でいいよね。わざわざ「男らしく」なんて注釈はいらない。
 「女々しい」は、逞しさや賢さを感じない手間のかかるような、厄介さがにじみ出るようなニュアンスなので、なかなか他にぴったりと当てはまる日本語がない。
 ただ厄介とか面倒臭いだけというわけでもなく、「女みたいだ」というと差別的だが、自分の中では「女々しい」と「女みたい」も全く異なる意味だと思うし・・・
 おそらく個々の主観で嫌いな人のタイプが違うのと同じで、今日的には差別的と言われるんだろうが、「女々しい」は女々しいだと思っている。
 逆に「男々しい」こそ、もっと違う意味で使うべきだろう。「主観的で非民主的な」とか「独善的で悪びれない」といった下卑たニュアンスで使った方がしっくりくるけどな。古典的な「男らしさ」を越えたらもう野蛮そのものだと思うしさ。
 漢字を当てずに仮名で「めめしい」、「おおしい・ををしい」ならいいのかな? それとも「芽々しい」ならいいのかな?
 「ををしい」なんて面倒臭そうだし、どうしたらいいのかわからない森喜朗感が出てない? 「朗々しい」とか「老々しい」って当てた方がいいか?

 さて、芽々しくない奴が出てきた。ヒエンソウらしい草も出てきたが、冬場の水遣りもなく乾燥しきった鉢から、アジュガが出てきた。鉢一杯に覆っていた全てが枯れたが、枯れた草の下から間違いなくアジュガ・チョコチップが生えてきた。
 俗に西洋十二単と呼ぶ標準的なアジュガ・レプタンスもうちにあるが、これは庭にも一部を移植して、仮に鉢が枯れても生き残りがいる。
 チョコレートチップは混ざらないようにしていたので、鉢が枯れると全滅する。で、全滅したんだなぁと思っていた。ただ、鉢にはモジズリも植えていたので、アジュガが枯れたのに気付いてからはマメに水を遣ってきた。
 そして、黄砂の前に庭を確認しようと見てみると、枯れたチョコチップの陰から青黒い葉がキラ~ン! キランソウだけに・・・
 小さな葉のチョコチップが生えてました。地上の草体は完全に枯れていたから、地中に種子でもあったのかな? とにかく、生えてきた。明らかに標準のレプタンスとは違う。チョコチップ復活! いやチョコチップ新生!!

 生き物がいるって良いね。集合住宅の自分以外に命の無い密室では、コロナ禍を乗り越えるのは無理だと思うよ。よく一人暮らしとかいうけど、いざと言う時には簡単に破綻しそうだね。修行僧だってもっとマシな生活をしてるだろう。
 そう思うとレオパレスの破綻とかは、神仏の啓示だったのかもしれないと思う。
 短い期間だったけど、レオパレスで一人暮らしをした事がある。あれは暗黒時代だったな。暗黒の自分史だった。二度とああいう選択をしたくない。しないと決めている。
 今、親が残した家と庭に生命を感じて、辛うじて生きている。外に出ればコロナ禍に飲み込まれてしまう。無駄に不安になるのも嫌だし、そもそも日本社会を信じていないから、前向きに協力するのも馬鹿馬鹿しい。今の社会には参加する意味がないと思っている。
 感染症との戦いは自己防衛の戦い。生き残れば勝ちだし、感染死は負けだ。
 それはとても自然なこと。自然の中では当たり前に生き死にの勝負が行われている。
 今、庭で増えてきたのが虫。アブ、ハエ、蛾やハバチといった羽虫が飛びまわっている。それと同時に蜘蛛の巣が増えてきた。木の樹皮を見ていると蟻が上り下りしている。虫全般が活発になっている。幼虫、毛虫の類も見られるようになった。まだ三月なのにこんなに活発になって・・・
 生存競争が盛んになっている。
 今、コロナ禍の人間も厳しい生存競争をしている。コロナとどう向き合うかで、五輪派と反五輪派が地味な競争を続けている。

 わたしは反五輪派だ。五輪は虻蜂取らずに終わるだろう。単に格差が広がるだけだ。災害復興にも役立たないし、経済の起爆剤にもならず、赤字だけが膨らむだろう。それに焦って何とか成功させようと飛び回って蜘蛛の巣にかかる。羽虫は蜘蛛の餌食だ。

 感染症との戦いは篭城戦が基本になる。
大坂城のように、自ら堀を埋める妥協をするな。
マジノ線のように、自ら身動きが取れなくなる孤立を避けろ。
万里の長城のように、社会を疲弊させる買い占めをするな。
アレクサンドリアのように、古い蔵書に頼るな。常に情報更新して、新しい知識を武器とせよ。無知無策を敵とせよ。

 首据石に五輪派の首を据えたいところだが、ここでちまちまと芽々しく書くだけにする。篭城する身では他人がどうなるかなど気にもできない。
 篭城の基本は援軍が来ることだが、対コロナの援軍はどこにいるのか? おそらくはワクチンではないだろうな。例えば五輪派が感染して倒れた先に、飲食店がことごとく破綻して更地になった後に、時間が運んでくれるのだろう。
 最後の審判にしては生ぬるいが、本当に必要なものは何かという断捨離にはもってこいだ。
 多くの人が同じ価値観を共有できるところまで、コロナ感染症はだらだらと続くのだと思う。今はまだ分断期。分断を煽っているのが政府与党だから性質が悪いね。

蜘蛛の巣を見上げて春空かかりたり
蜘蛛の巣につちふりて 宙ぶらりん