今はもうやらないけど、今でも思い出すゲームというと・・・
などに入れてくれるかな? ゲームブック とりわけ双葉社のルパン三世シリーズ。それも初期の「ダークシティーの戦い」が好きだったな。自分はシリーズ全てを揃えられてないみたいだけど、「戦慄のサブウェイ」まで漏れなく追っていたはず。その先が何冊かあるらしいけど、タイトルもしらない。
ええ、一人遊びですよ。ルパン以外にも早川書房とかのファンタジーものがあったよね。タイトルまでは覚えてないけど。
いまでもあるのかな、ゲームブック。
豊かな家庭ではなかったので、携帯ゲーム機やビデオゲーム機なんて買ってもらえなかったし、ある時期、自分にとってゲームと言えばゲームブックだったな。
すごろくみたいなボードゲームは子供の頃こそ親も遊んでくれるけど、大きくなると親は勉強の話しかしなくなる。歳の近い兄弟のいない自分は一人遊びを見つけるしかなかったが、世はビデオゲーム時代で自分にとって一種のトラウマだった。今もゲームは全般好きだけど、人と遊ぶゲームは苦手です。特に対戦型、他者と競うことを強いるネットワークゲームも好きではありませんね。
だから、過去記事でも某千年戦争ゲームとか某お城ゲームとか、他者と関わらない自己完結ゲームしかしてこなかった。一時期ゲームセンターでサッカーのWCCFにはまっていたけど、あれは秋葉原でサッカーカードを先に見て買っちゃったから。ゲームを知る前にカードを買っちゃったんだよね。そのゲームも今は名前もシステムも変わったらしい。
ちょっと前まで遊んでいたのはTwitterで知ったことのはたんごという日本語版wordle。クロスワードが好きな人も多いと思うけど、単純な言葉当てゲームは誰でも簡単にできるというハードルの低さがいいよね。
でもそれさえ戦争と鬱気分に飲まれてやる気がしなくなった。もともと厭きやすい性格なので、つまらない理由で気力が失せるんだよね。
その昔、ブラウザゲームでスクエア・エニックスが提供していたMONSTER×DRAGONは、私が初めて課金サービスを利用したネットゲームだった。そのゲームがサービス終了になって以降、ゲームに金を使うということはなくなったね。(ユーザー側が課金するという言葉遣いは変だよね・・・俗語として自分も使うけども・・・)
といっても使ったのは500円ぐらいだったと思う。「狙撃機竜 ブラッド・キャノン」の長射程を使いたかっただけ。課金サービスそのものより本当に戦術・戦略が試されるゲームだったから、サービスを終了させたスクエア・エニックスが今でも憎い。もうスクエニを好きになることは自分の残りの人生ではなさそうだね。尤もそういうゲームをもうしないけどさ。自分の中では本当に数少ないハマったチーム対戦型のゲームだったから、悲しかったな。
DMMの銀英伝のゲームも短期でサービスが終わったね。興味を持ったものが終わるのは本当に悲しい。DMMの銀英伝は退屈なゲームだったから消えるだろうとは察していたけど・・・
子供の頃から自分でゲームを作るのが好きだったから、ゲームブックとかすごろくとか将棋みたいなものを手作りしたりしたね。ゲームのルール、システムを考えるのは楽しいよ。サイコロってのは、その意味でとても重要なアイテムというか、今でもサイコロを振って生活を決める程だから、サイコロ好きなのかな。
占いも好きでタロットカードも何セットか持ってる。根拠のないサイコロの目のような偶然性が好きなのかもね。そういうのだけが上下関係も実力も関係ない予想の難しいギャンブルだから。勝ちパターンがないんだよ。
カードの裏と表で、見えない裏側に神秘性を感じるのは人の本能の一部なのか、欲求が生む錯覚なのか・・・
あ、MONSTER×DRAGONでもコマンダーはギャンブラーをよく使ってたな。勉強が嫌いな子だったので、実力で競わされるのが嫌いなんだろうな。何にしろ「継続は拷問なり」が持論なので・・・
カードゲームもボードゲームもビデオゲームも楽しいよ。得手不得手はあるけど、まぁ楽しい。最近はクリアの概念がないゲームも散見されて、自分で楽しさを探すというスタイルも出始めている。
いわゆる攻略法に頼らない、あるいは頼れないゲームというのが私の理想だ。定型を生まないという点で重要判定でのランダム・サイコロの要素は重要になってくる。
ランダムでゲームオーバーになるのではつまらなくなるけど、定期的にリセットされてやめるまで終わらないというのはあるよね。トランプや麻雀も終わりはあるけど、終わりでやめなければ実質エンドレス。
勝利者を生まないゲームというのも理想の一つだが、それでは競争が生まれない可能性がある。競争を完全に廃してしまうと人の脳の報酬系が刺激されず、満足感が得られない。
「満たされる」というのは、「満たされない」に対する相対値だから、絶対値化すると報酬系は麻痺してしまうだろう。「当然」という状況では、満足感は自覚できない。そのような時に「失って初めて知る」というような残念な学びが待っている。
競わないゲームとして、「ぬり絵」や「折り紙」がある。それをゲームとして認識するかは個人差があるかもしれないが、遊びであり、ゲームにもなりうる。非競争ゲームでありながら、他者と比較して「綺麗なぬり絵」、「難しい折り紙」という差別化を求める時に隠れた競争性が発生する。あるいはパズル性があり、完成時の達成感に報酬系を刺激するというゲーム性がある。パズルの競争相手は、出題者≒パズルそのものだろう。
おそらく同じ線上にいわゆる音ゲーの類、謎解きなどもあるんだと思うよ。
人も生物なので本能として獲得競争(生存競争)を求めてしまい、反対にそれが著しく欠けていると一種の精神障害と見做されるかもしれない。
あるいは競争心を欠いているのではなく、自覚症状なく別のゲームやルールを求めているのかもしれない。とりわけ日本社会はルール変更・ゲームチェンジャーを嫌う自公社会なので、組織的に障害者・異端者扱いして除こうとしているのかもしれない。
何にしろ、ゲームはプレイするのも楽しいが、ゲーム自体を考える、作るという方が楽しいと私は思っている。それを便宜的に叶えたのがツクールシリーズだろう。
限定的な擬似創作という意味では、キャラクターデザインの選択肢が多いゲームは増えている。その一つがDQやFFだろう。今だとMHの方が人気か?
名前を自由に設定し、職業やスキルの概念でプレイヤーキャラの個性化を図る。育成系なんていうのも似ている。
それは自己投影、今でいうアバターなのだろう。そういえば故ヤフーブログにはアバター、アメーバブログにはピグがあったね。
急に思い出した。もなちゃとなんかも、つまりアバターを使ったチャット機能だったね。チャットも対人ゲームの一種といえるのかもしれないね。
LINEなどSNS全盛時代だけど、実態はチャットそのものだよね。コミュニケーションはゲームの味付けとして当たり前で、それを駆け引きと呼ぶか、おしゃべりと呼ぶかは個人の認識次第だ。
つまり、遊び方自体が自由な方がいい。やりこみなんていう面倒なものではなくとも、攻略法に頼らない「遊び」ができる遊べるゲームがいいと思う。
けども、そういうのはなかなか巡り合えないね。
最近のゲームはキャラクターの育て方などにパターンがあり、初期の育て方や選択を失敗すると結果に差が生じてしまう金型ゲームが主流。それがタイトルを変え、キャラクターデザインを変え、テーマを変えして氾濫しているが、金型はほぼ共通だ。正に子供騙しの商売ゲームだね。
効率重視で攻略法を見つけるというのが半ば目的化している場合もあり、次第にゲームの面白さは制限されている気がする。数学的で理路整然としているけども、あまりに現実社会から乖離しすぎ、合理主義が過ぎてコミュ障批判ではないけども、遊びの性質が変わってしまっている。
かといって操作技術が問われるシューティングや格闘、レース、つまりアクションゲームは、上手下手が露骨な差となり、全然勝てないから面白くないなんてこともある。
自分も格闘ゲームは嫌い。戦闘系のアクションゲームもすぐに飽きてしまう。トラウマだね。
相手が強すぎても弱すぎても競争ゲームは面白くないんだよ。参加しているだけで満足できる人もいるのかもしれないけど・・・
ゲームのサブカルチャーであったはずの攻略法がゲームを支配するようになり、安易に支配されてしまうゲームが乱発されて、近年のネットゲームはサイコロを失ってしまった。ファミ通みたいな攻略雑誌が残した功罪の罪、負の遺産かもしれないと思うこともある。
ゲームの勝敗や楽しさが、金銭に依存するようになり、ゲームの商売色が増すごとに遊戯が社会競争化し、顕示欲の捌け口になり、対立になり、犯罪さえ助長するようになっている。
ああゲームに支配されてしまった現代人の現実逃避は、殺人や戦争や災害さえも無視するようになってしまった。
漫画・アニメ・出版・音楽・ゲームのメディアミックスは国家・社会まで取り込んで、様々なコングロマリットに政治家まで一枚噛もうという巨大利権の一画となった。
スポーツも労働もゲームのように解釈する人が増えてしまい、宗教さえゲームのように人々をキャラ扱いする。いまや学校までもゲーム化しつつある。その方が楽なのはわかるけども・・・
どこで掛け違えたのか、人々はゲームの駒になってしまい、サイコロを振る側ではなくなったらしい。
人生はゲームと大差が無くなってしまった。いや、ゲームとはもともと人生の縮図として作られたものだったのかもしれない。
産んだ親、生まれた国で選択できる人生が制限される。有利なスキルを身につけた者が勝利に近付く。主要キャラでない者は餌にされてしまう。
いつからかゲームと現実は逆転してしまった。弱いキャラはネタと呼ばれ、生きることさえ許されない様である。サイコロを振る行為さえ最低の運ゲー、不合理・不確実と罵られる有様だ。
そして、犯罪者が増える。就労できずに死か犯罪かの二択を迫られる人のなんと多いことか。それがゲーム化社会である。
独裁国家の国民・兵士とは自分でサイコロを振れないNPCである。某国のプリゴジンがいかに異端なのかは言わずもがな。
最近はカードゲームが盛況で、社会問題に発展している。
自分も遊戯王カードを持ってたよ。甥と遊ぶためにヴァンガードも中古ばかり大人買いしたな。その甥も成人し、全部中古屋で換金したらしい。俺のディメンジョンポリスが・・・
カードで今も手元にあるのは前述のWCCFだけだ。今でも筺体なしでのアナログな遊び方を考えることがあるほど。ちょうど24面体サイコロを持っているので、各能力値MAX20に対して24面で判定するのはちょうど良さそうだろ。それにボードゲームのような駒移動を連携させれば、サッカーボードゲームが生まれそうだ。
でも、これは頭の中で考えているだけだから「楽しそう」を遊んでいるだけ。ボードゲームにするしても、判定作業が多すぎると煩雑でサッカーらしい即興性が皆無になる。
昔フジテレビで放送された「征服王」は将棋形式のボードゲームで戦うという番組だった。面白いゲームだったね。フジテレビはオリジナルゲームをやるだけの番組をよく制作していたけど、どれも面白いゲームだった。
でもタレントが遊ぶだけで、子供目線ではどこで遊べるんだよ!という不満と失望を抱えながらの番組だった。四人でやる四神将棋なんてのもあったね。
プレイヤーが騙しあうゲームは面白くても、好きにはなれなかった。享楽に過ぎるし、サイコパス性(この場合は未必の故意)を競うようでこっそりと深刻なレベルで反社会的だと感じる。でも流行ってたね。さすが自公社会の国民だと今更ながらにつくづく思う。過剰競争社会の終点手前といったゲームだ。ああ、バブルとはそういうことか・・・
人間はたしか二歳ぐらいから嘘をつくらしい。母親を呼ぶために鳴くというのが初期の嘘だとか。三歳頃には語彙も増え始め、簡単にバレる嘘を並べるようになる。中には作り話のような話も出てくる。次第に親を騙す知性が磨かれて、秘密という概念が高度になっていく。最初の相手が親など身近な人相手なので、嘘下手な人は親が疑わない人だったのかもしれないね。
嘘ではなく暴力を使うようになるのも親など身近な人に影響される。嘘と暴力自体は人に備わった基礎能力だが、問題解決に嘘を使うか、暴力を使うかで人の性質、個性が強く出てくる。まぁ、身近な人がメディアであるなんて場合もあるので、できることはいずれできるようになるとしか言えないね。
その意味で考えるとファンタジーゲームの剣は暴力、魔法は嘘だとも考えられる。それ以外に人に備わった能力は逃避、結託、依存といったところだろうか。
某国のプーチンは嘘を常套手段として、暴力を使って現実逃避する。暴力による脅しで相手を依存させて、虚構の社会秩序で弱者を支配する。国民一人一人が弱者となり、プーチン自身が絶対者だと信じ込ませるのも虚構教育である。
政治の実態のほとんどは合理性のないゲームである。権力闘争ゲームだ。自公政治に限らず、人類の政治のほとんどはゲームであり、社会全体としては実益に乏しい行為に溢れている。「政治とはそういうものだ」という思い込みこそが虚構教育である。
結局、ゲームとは人生の縮図。人生でぶつかる障害は簡略化されてゲームに詰められている。ビデオゲームの多くは最終的に誰でも攻略ができるようになっていて、将棋や囲碁のように事実上実力が及ばない相手には勝てないといった現象は起こりにくい。起こらないように難易度調整を設けていたりする
実際の社会では難易度調整はなく、ゲームチェンジを拒む結託した組織に阻まれて自分の人生さえ見失ってしまう人は少なくない。鬱や帯状疱疹を発症する前に休みなさい。睡眠の質がどんなに整っても、ストレスはなくならないのだよ。
人生ゲームのように特定マスで止められて結婚や出産をするわけではない。最新の人生ゲームは独身モードがあるらしいけど・・・
結局、ニーズというより商人の都合に影響されて、寄生されてしまうんだよね。寄生された者を客と呼ぶのかもしれないね。さもなければ鴨だ。
で、何の話だっけ? あ、お題はお気に入りのゲームだったのに脱線がひどい。
なんだろお気に入りゲームって・・・
マインスイーパーかな? いやちょっとまってよ・・・ ビジュアル的に好きな要素はないよ・・・
あ、おはじきとかあやとりは?
やっぱり、ゲームというか、ゲームを考えている時が一番楽しいかも。
というわけで、答えはゲームを考えるゲーム!
蚯蚓もか夏に負けて死ぬものあり